六月一日。今日は吹奏楽部の練習は休みだし、コンクールは既に中止が決定されてしまった。だから私たちは来年の受験のために勉強を頑張る必要がある。
コンクールがなくなったおかげで、勉強時間を長く取れる。学生の本分を考えると、喜ばしいことなんだろう。全体練習も、みんなのモチベーションが高くない。コンクールがあれば、もっとやる気を出していたんだろうか。でも、もう私たちには共に向かうべき目標は存在しない。今している練習の成果は、どこにも見せる機会がない。目指すべき場所がない旅なんて、それは迷子だ。
私はただ囚われているだけだ。理想の今に。
昨日と同じようにネガティブな思考に陥りそうになるが、今日も芽に慰められるわけにもいかないので、頭を振っていやな気持ちを吹き飛ばす。
朝練なんてものもないので、そのまま教室に向かう。廊下ではおそらく一年生の集団がわいわい騒いでいる。朝だというのに元気だ。ただ一年生まれた時が違うだけなはずなのに、なぜだかきらきら輝いて見えた。私も、去年は一年生だったはずなのに。
朝のホームルームが終わった後、担任兼顧問の宮崎先生に前に来るように言われた。要件は、六月の予定表が出来上がったから、部員みんなに配って欲しい、とのことだった。
現役の二年生、一年生だけでなく、今月の引退式の主役である三年生の各クラスに配らないといけないから、地味な重労働だ。それでも嫌というわけではないので引き受ける。
渡されるとき、六月の予定がチラッと見えてしまった。スカスカすぎるあんまりな予定と、「引退式」の文字。三年の先輩たちも、コンクールが中止されたせいでやり切れない気持ちだろう。このまま卒業しないといけない先輩たちが、かわいそうだ。私たちはまだ練習は出来る。もしかしたら演奏を披露する舞台があるかもしれない。特効薬が出来て窮屈な生活が終わるかもしれない。ある日、世界を巻きこんだドッキリのネタバラシをされるかもしれない。私たちの代は、まだ引退しているわけじゃない。練習を続けていたらいつか、そんな淡い期待を抱きたい。
でも空っぽだ。全部。幻想だ。
コンクールはないし、この世界は悲しいことに現実で、六月の予定表は空っぽで、練習をしても意味なんて……。
「おはよう!
叶奏 !」
「あっ……おはよう。
芽 」
「なになに、これが六月の予定表か~って練習全然できないね!それにあとは引退式か……。さみしくなっちゃうねー」
芽が私の持っている予定表をヒョイと一枚取って眺める。私もさっき貰ったときにちゃんと中までは見れていなかったので、芽と一緒に予定表を見る。
「一、二、三、……全部で二十日しかないんだ。しかも、三時間しかできないし」
「まあこんなご時世だし、コンクールもないし、ね。それより、これ配るの手伝うよ!叶奏一人じゃ大変じゃん!」
芽が、しんみりしそうになった空気を変えるようにハツラツに言う。芽が隣にいてくれたら、一人で配るよりも心強い。特に、渡すものがあるという大義名分があっても、先輩の教室にまで行くのは心細かった。
「ありがと。じゃあ、いっしょに行こ!」
まずは近くの教室にいる、二年生たちに予定表を配りに行く。
隣の教室に入った途端、芽が手を振りながら叫ぶ。
「
眞呼 ~!予定表持ってきたよ~」
みんなの視線が一瞬でこっちを向き、興味なさそうに元に戻っていく。私じゃこんなことは出来ない。さすが芽だ。
同じように二年生の部員全員に配り終わり、次は一年生の教室に向かう。
「でも一年生は誰か一人にに渡して、その子に配ってもらったら良いよね」
「まあね~ぶっちゃけ私たちが行くより、一年の子同士の方が渡しやすいだろうし!というか、さすがにどのクラスに居るかなんて、全員は覚えてないし、ね!」
と話しながら歩いていると、見知った後輩がちょうど前から歩いてきているのに出くわす。
「あっ……片倉先輩、
栢木 先輩、おはようございます!」
「おはよ!梨子ちゃん!ちょっと頼みたいことがあるんだけど、頼まれてくれる?」
芽の呼び止めに、梨子ちゃんが止まり、快く返事をしてくれる。
「────はい!」
「この予定表なんだけど、一年のみんなに配ってもらえる?」
「わかりました!」
私が何枚か手に取りつつ、梨子ちゃんに手渡す。初めて会ったときから比べると、少し打ち解けられた気がする。新歓のときよりも、どこか明るく見える。
「じゃ!お願い!またね~!」
「……お疲れ様です!」
そう言って私たちは別れ、私と芽は三年生の教室に向かう。
廊下を歩いていくと、周りが三年生ばかりになる。冷え切ったような、ピリピリとした空気が張り詰めてくる。会話が無いというわけではないものの、明らかに脳天気な会話は聞こえてこず、受験モードを否が応でも感じさせる。
「ちょっと雰囲気違うね~」
いつもよりトーンと声量を落として、芽が話しかけてくる。この飲まれるような雰囲気に気圧されて、私も少し声量が小さくなる。
「私たちも来年はこんな風にならないといけないんだよね……」
「そんな怖いこと言わないでよ、叶奏!」
「進路どうしよう……。……でも吹奏楽は続けたいなぁ」
「そっか~。あっ、ここだよね確か、高橋先輩のクラス」
「多分そう、かな?芽、呼んでくるのは任せた!」
「任された!」
教室に入っていく芽を見送りながら、手持ち無沙汰になって辺りを少し見渡す。廊下を歩いていたときに感じた、空気の違いのようなものがより如実に肌を持って感じさせられる。教室の中からは雑談のようなものはほとんど聞こえてこず、チラホラと聞こえてくるのは、授業の内容あるいは単語帳、はたまた問題集や進路のことばかりだった。
たった一年で、私もこうなる、いやならないといけないんだ。コンクールのない今、もう残されているのは勉強をすることだけ。
「たっだいま~!────あれ、叶奏、暗い顔してどうしたの?」
「……いや、ちょっと勉強頑張らないとって思ったら、気が重いだけ。テストも言ってる間に来ちゃうし、ね」
「わあああそうだああああ。テスト嫌だな~」
「あれ、芽。持ってた紙だいぶ少なくなってない?」
「そうそう!高橋先輩が全部配ってくれるって言ってくれたんだよ!いや~あんな先輩になりたいね~」
「……そうだね。私たちもならなくちゃ」
そんなこんなで私は授業を終え、いつものように電車に乗る。
今日もなんてことない日常を過ごす。これは、世界でバグが発生してしまっただけで、非日常ではない。私たちにとっては、これが日常なんだ。だから、この日々を過ごさないといけない。
授業はマスクを付けたまま。お昼ご飯は黙って全員前を向いて。咳をすることも躊躇われるなかでも、懸命に生きていかなくちゃいけない。誰も悪くないのに、この世界は不条理だ。私たちは不自由な今に囚われている。
「次は~〇〇~。次は~〇〇~。左側のドアが開きます」
なぜだろう、涙が出そうだ。こんな電車の中という公衆の面前で、泣いてしまうわけにはいかない。
「んんっ、コホン」
慌てて咳で誤魔化すが、周りからの視線がそれは悪手だったことを示す。
違う。私はただ……。
狭くて苦しい。閉塞感で息が詰まる。
もし違う世界だったら、もっと楽しかったのかな。
私の未来は、どうなっちゃうんだろう。いい未来だったら良いな。
明日は晴れますように。