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叶奏ショートストーリー 5/31

叶奏のオリジナルショートストーリをお楽しみください!

休日の廊下は足音がよく響く。楽器室の前に立ち、重い扉を開けようと手をかけた叶奏の耳が、部屋の中の声を捉えた。

「練習、三時間ってぶっちゃけありがたいよな」

「コンクールあったら一日中だもんな、ダルいわ」

小テストや皿洗いを嫌がるような軽薄な声。脳の芯が冷えていく。

「わかる、早く帰って勉強して〜、模試あるし」

無意識に手を下ろし、後ずさっていた。たぶん、トロンボーンパートの佳島と紅中だ。

練習時間。コンクール。それらは前代未聞の流行病によって、吹奏楽部員から平等に、奪われたものだと思っていた。それが欠けた穴の形は、みんな同じだと。

踵を返す。楽器を準備する前に、譜面台と椅子を準備してもよいのだから。突き当たりにある音楽室は、朝のやわらかい光に満ちていた。集まり始めた部員が音を出したり、椅子を並べたりしていて、叶奏も自然にそこに加わる。練習の準備はいつも通りに、静かに進んでいった。



「合奏始めます。皆さんチューニングB♭お願いします!」

叶奏が手を叩くと、部員の視線が少しずつ集まってくる。あたたかく伸びてゆくオーボエの音に重ねるように、各楽器がゆっくりとユニゾンを形成してゆく。コンミスとして教壇に立つと、ゆるやかな階段状の音楽室に揃う顔を見上げる形になる。全員が合わせたのを見計らってもう一度促すと、音楽室の壁や窓を震わすように、B♭のロングトーンが響いた。

「基礎練習やります」

いつも使っている楽譜を捲る。さまざまな楽器を重ねて「吹奏楽」の音にしてゆく基礎練習の時間が、叶奏はとても好きだ。

「芽、ちょっと高かったかも」

「おっけー」

「ホルン、佐々木と、一年の前田くんかな? もうちょい弱めにお願い」

「あ、はーい」

音程やバランスを調整するように、気になった部分の指示を出してゆく。いくつかの修正を挟みつつ、練習は順調に進んでいった。

「次、21ページの3番お願いします! ハーモニーやります!」

いつも行っているハーモニー練習だ。和音の中で各パートがどういった役割を担っているのか。全員がそれを理解することは、吹奏楽を成立させるための必須要素である。何か違和感は、と探す耳が、かすかな不協和音をつかまえた。四小節が終わり、確認に移る。一番気になったのは……。

「二小節目、Fの音を吹いている人だけでお願いします、いち、に」

違和感が顕わになる。明らかにピッチが合っていない。この部分は、Fの音が合わないと綺麗なハーモニーは成立しない。原因となっている音がする方を見遣り、口を開きかけて、止まる。

先ほどの楽器室で聞いた声が脳内を反響した。練習時間が減ったことを喜ぶ言葉。和音を壊していたのは、佳島のトロンボーンだった。

「えっと、トロンボーンかな? ピッチ、もうちょっと気をつけてください……」

みんなが上手くなりたいんだと思っていた。練習はいくらやっても足りないものだと思っていた。最高の演奏を完成させたいのは、共通認識だと思っていた。

彼の名前を呼ぶことが、できない。

「もう一回、全員でお願いします。いち、に」

しばしの演奏が終わる。叶奏が言葉を選んでいると、教室の奥から声が聞こえた。

「叶奏、いい?」

部長の遠藤眞呼だった。眩い金色のトランペットを唇から離して、軽く手を挙げている。階段教室の最上段からまっすぐにこちらを見据える彼女に怯みつつ、曖昧に頷いて発言権を譲る。

「佳島よね。合ってないの」

表情をピクリとも動かさずに指摘してのけると、これ以上言うことはない、とばかりに楽器を持ち直す。佳島は少し目を見開いてから、すこし面倒そうに確認を始めた。

「あ、えっと……、じゃあ、もう一度やります。いち、に、」

今度こそ、バランスの取れたハーモニーが教室内に響く。眞呼が奏でるファーストトランペットの音が、教室の奥から突き刺さってくるようだった。



「三時間過ぎるの、早いね〜!」

練習が終わり、パイプ椅子を畳んでいると、フルートパートの片倉芽が話しかけてきた。高一の時からいちばんの友達で、今はクラスも同じだ。

「そうだね……」

歯切れの悪い返事を返す叶奏に気を遣ってか、芽はいつもより明るい声で続けた。

「叶奏さ、お昼一緒に食べない?」

「えっ」

練習が終わったあと、ご飯を一緒に食べること。それは、練習時間と同様に、流行病が奪っていったものだった。

「大丈夫! 私、いいこと考えたんだ」

芽は口ごもる叶奏に構わず、持っていた譜面台を手際よくたたみ終えて向き直り、とっておきの提案を口にする。

「コンビニでなんか買ってさ、公園行こうよ! 公園だったら、密じゃないでしょ?」

半ば気圧されるように、叶奏はゆるゆると頷いた。



初夏の太陽に照らされたベンチに、並んで腰掛ける。

「あ、やっぱり叶奏、甘いの買ってる。今日はもう吹かないもんね」

紙パックのミルクティーを取り出すと、芽もオレンジジュースにストローを刺したところだった。吹奏楽部員は、演奏中は甘い飲み物を控える。楽器を悪くするかららしい。

「芽もジュース買ってるじゃん」

パックの口を開き、長いストローを浮かべて吸い上げた。甘い。何だか悪いことをしているような気持ちになる。

「もちろん。あとね、でっかいパスタ!」

芽が袋を見せびらかしてくる。叶奏もサンドイッチを取り出して、包装を剥いた。口へ運ぼうとマスクを外すと、初夏のすこし青くさい風が口元を撫でる。肺にこもっていた空気が置き換わる感覚に、しばらく動けなかった。

「食べないの?」

「あ、うん!」

慌ててかぶりつくと、レタスを噛む音とともにみずみずしいトマトの味が口に広がる。誤魔化すようにもう一口食べようとすると、芽が意を決したように向き直った。

「叶奏さ、今日、なんかあった?」

「へ……?」

「へ、じゃない。絶対無理してる。基礎練の時も、気づいてたでしょ? 佳島くんが音ズレてたの」

「それは……」

親友の丸くて大きな瞳は、何もかもを見通すように光っている。

「朝ね、楽器室で、佳島と、紅中が話してるの、聞いちゃったんだ。練習が少なくなって、よかったって」

言葉にしながら、打ち明けるのを怖がっていた自分に気づく。疑ってしまっていたのだ。あろうことか芽が、佳島たちと同じ考えだったらどうしよう、と。そんなはずはないのに。目の前の友人は、愕然と目を見開いていた。

「なに……それ」

呟き、首を横にふるふると振る芽。叶奏の口の中に、塩辛い味が込み上げてくる。視界がぼやけ、慌てて目をつぶると、右手に温かい水滴が落ちた。掴んでいたサンドイッチを一度置いて、目元を拭う。

「練習が一日中あると、ダルい、模試の勉強をしたい、って」

「ひどいよ。そりゃ、戸惑うよ、直接注意するの……」

「眞呼ちゃんはできてた!」

「それは!」

声を張りすぎた自分に気づいたように、口を押さえてからまた話し出す芽。叶奏も一度息を吸い込む。ひゅう、と喉が鳴る。

「だって、佳島くんのこと、眞呼ちゃんは知らないんでしょ?」

「でも、眞呼ちゃんなら、知ってたって注意できる。コンミスだって、きっともっと強くて、ちゃんと指摘できる人が向いてるんだ。眞呼ちゃんみたいな」

「聞いちゃってたら、注意できないよ。私だって眞呼ちゃんだって……」

「でも、私コンミスだもん! できなきゃじゃん、それくらいっ」

息を吸おうとして、しゃくりあげる。声が震える。目を開くと、溢れ出した涙で歪んだ世界の真ん中に、芽が両手を差し出していた。

「そんなことない! こんなに考えて、頑張ってるんだよ。叶奏は!」

親友の体に、縋り付くように抱きつく。

「みんなで同じ方向を向いてるって、思ってた。高校に入ってから、ずっと楽しかったんだ。私、無理させてたのかな。もう、あんなふうに練習できないのかな」

「約束、したじゃん。来年こそは、地区大会行くぞ、って……。約束したのに、ね。」

背中の方から聞こえる芽の声が、潤み始める。ああ、迷っているのは、私だけじゃない。

「いまからいくら練習したってさ、コンクールに出るわけじゃ、ないもんね。上手くなったって、金賞は取れないんだもんね」

腕の中で嗚咽が大きくなっていく。目指すものがないまま高め合えるほどに、高校生たちは強くない。そんなことを知らなくても、生きていけたのだ。目標を奪われて、不和に気づくまでは。

「ねえ芽、どうしたらいいんだろうね。いままで、普通に、頑張ってたらよかったのにね、私たち」

「わかんない。わかんないよ……」

体重を預け合いながら、二人の泣き声は言葉を失っていった。



二人の高校生は、泣き疲れてもしばらく抱き合っていた。叶奏の背中に置いてあった手が、不意に離れる。そのまま、ぐっと起き上がらされた。涙でぐちゃぐちゃになった芽の顔が、視界いっぱいに映る。

「っねえ、叶奏……。練習、たのしい?」

「……わかんない」

ちょっと口を開くと、また涙が溢れそうだった。

「私は、楽しいよ。コンクールないのは悔しいけど、でも、だいすきだもん。みんなで合奏するの。演奏、上手くなるの」

コンビニでもらったおしぼりで顔を拭いながら、泣きそうな声で、それでも芽は笑っていた。いや、きっと笑おうとしているのだ。

「私も、そうかも」

口角を上げると、涙の跡が引き攣る。

「叶奏が楽しいって思うようにやったらいいよ。私はまだ練習頑張りたいし、なにより、叶奏にコンミス任せたのは私たち、でしょ?」

無理をするように大きな声を出し、よろめきながらも立ち上がる芽。

「そうだね、楽しく練習、がんばるよ。私」

きっとこれからも、無理に笑いながら、空元気でやっていくしかないのだ。

深く息を吸い込むと、微かな雨の匂いが鼻腔を刺した。あしたから、六月だ。胸の大きな欠落は、体の重心を変えるように居座り続けていた。